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夫婦と余白とロゴスとレンマ

  • 執筆者の写真: mommemma
    mommemma
  • 2020年3月25日
  • 読了時間: 3分

ご存知の方も多いかもしれませんが、私には「あきちゃん」という夫がいます。

2年前に結婚して、今年で結婚生活3年目(あ、4年目か?ちょっと覚えていない)。

まあ世の中的にはギリ、"新婚"と言われる範疇でしょうか。

あきちゃんと私がなぜ結婚したのかをさかのぼって考えると、とある会話がきっかけになっているように思います。

~(以下、回想)~

まだ二人とも東京に住んでいた頃、まだ付き合いはじめて数回目のデートのあたり、

明治神宮にふらっと立ち寄ったことがあって、その緑いっぱいの参道でのお話。

わたし:「なんで葉っぱは緑なのかな?」

あきちゃん:「そうだねー。それは葉っぱの中の葉緑体が光合成して~~◯✕%#(長い説明)$&◎~~~。

・・・あ、でも、そうゆうこと聞いてるんじゃないんだよね?」

わたし:「うん、そうゆうこと、聞いてるんじゃない」

~(回想、おわり)~

この時、「そうゆうこと聞いてるんじゃないんだよね?」って言ってくれなかったら、たぶんわたしは、彼と結婚していなかったと思います。

これはわたしの勝手な所感だけど、世の中の男性との会話はよく、あきちゃんの「◯✕%#$&◎」のあたりで終わることが多い気がします。

会話をしていて、結論というか、明確な理由というか、ロジックというか、そんなものを目指して言葉を繰り出す人が多いなと思っているのだけど、つまるところそれって「説明のための説明」になっていて、その奥にある「本当の問い」みないなものに触れる前に、だいたい会話が終わってしまっている。

この場合、「葉っぱはなぜ緑なの?」という言葉の中で、わたしは別に「緑になる原因と生物学的?構造」を知りたいわけではなく(葉緑体など中学の生物の知識レベルで知っている)、なぜそれが "緑でなければならなかったのか"を問うているのです。

そういったわたしの「問いの本質」を嗅ぎ分けて、最終的に「でも、そうゆうこと聞いてるんじゃないよね」と答え(そしてそれに対して明確な回答を持っていないことも正直に表明し)てくれたあきちゃんを、わたしは「誠実な人だ」と思ったのでした。

結婚生活3年目のペーペーが考える「夫婦像」ですが、結婚生活においてもこの「そういうこと言ってるんじゃないんだよね」という、相手を受け入れる姿勢というか、想像力というか、そういった "余白" みたいなところが、とても大切だと思うのです。

ここでは「男性との会話」として例を挙げていますが、生物学的な「男性 vs 女性」の対立構造を浮き彫りにして「だから女の方がいい」みたいなことを言いたいわけではなく、立場は何であれ、他者に対して「そうかもしれない・そうじゃないかもしれない」という余地を残しておくことを、忘れずにいたいなということです。

白黒割り切れて余りのない "ロゴス" が優先され、いっぽうで感覚的で本能的な "レンマ" が「不確かでいい加減なもの」と軽視されることで「近代性」と「資本主義社会」を獲得してきた現代(このあたり中沢新一さんの受け売りね)。

それと比例するように、男性的でロジカルな「話し方」と「言葉」がもてはやされ、感性豊かな「日常の言葉」や「言葉になる前の言葉」は "娯楽的"もしくは"よく分からないもの"という地位に留められているように見えます。

でも、やっぱりその「白黒はっきりさせる」世の中って、限界を迎えていますよね。

現代の息苦しさの要因のひとつに、この「余白のなさ」があるのではと思ってしまうのはわたしだけでしょうか…?

まあつまるところ、わたしはあきちゃんが大好きで、これからも男と女というペアでの「夫婦」として、やっていきたいなということです(←え?)。

割り切れない難しさやもどかしさを抱えながら、つまりはそれらを受け入れられるかどうかが、結婚生活のかなめ。

夫婦の生活もゲストハウスも "情緒"を忘れずに作り上げていこうと思う、今日このごろです。

雑な終わりかたで、ちゃんちゃん。


 
 
 

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